第1回:プロローグ~コロナ禍の中で~

今回、コラムのお話を頂き、もし私のような未熟な疫学者の端くれが社会にとって少しでもお役にたてることがあるとすればそれは疫学的視点とは一体どういったものなのか、あるいはその前段としてそもそも「科学的とは何か」といった、日本全体として未熟で、故に適切な科学者が、科学的立場の人が不適切に追い詰められることが無くなるためにどうにか貢献できないだろうか、そんな思いでお引き受けすることにした。

お断りしておきたいのは、日本には私のような未熟者ではない疫学者はたくさんいらっしゃるということである。私が出来ることと言えば、むしろその未熟度であり(胸を張っていうようなことではないのだが・・・)、「会社勤めをしながらの疫学に関わる活動をしている」という点において、決して大先生では出来ないであろう、背伸びをしないテイストをちりばめることくらいだろう。日頃の箸休めのような位置づけでお付き合い頂けたら何よりである。

ところで、「あれ、スウェーデンの疫学者といえば、自身の政策が間違っていたという反省の言葉を言っていなかったっけ?」と思われた人もいるかもしれない。確かにテグネル博士は「我々の政策については大いに反省の余地がある」なる発言をされたそうであるが、これは日本で6月頃に一斉に報道された、あたかも都市封鎖をしていれば被害をもっと抑えられたかのようなニュアンスでは無い。あくまで都市封鎖等の社会活動や経済活動の強固な停止には反対したうえで、新型コロナの所作、つまりその毒性や有効な防止策などが今のように明らかになってきた中で、「もしもの世界」としてこうした情報が当初に知り得ていたのであれば、実際にとった政策よりも、よりよい政策はあり得たというお話である。

ここでもまた日本の課題が垣間見られるといえるだろう。日本のマスメディアは往々にして商業主義に行き過ぎている感があり、読み手の期待、つまり「スウェーデンの疫学者が都市封鎖をしなかったことを後悔している」図式を演出することが最も興味を引きそうということになれば、博士の発言の本質を伝えねば、などという科学的正義感など簡単に吹っ飛んでしまう。もちろん本コラムを始め文章というのは読む人があってこそのものなのではあるが、これではマスメディアの本懐、魂まで抜かれてしまっているといえるのではないだろうか。

さて、コラムを書き進めながら冒頭の天丼屋で食べた天丼の味を思い出そうとするのだが、甘口だったか辛口だったか、そもそも具材は何だったのか、さっぱり思い出せない。そういえばその時、「もし美味し過ぎたらどうしよう」と心配していたことならば思い出せる。不味い天丼は勘弁してほしいが、一方でもう二度と食べることが出来ないのであれば美味しすぎても困る。そんなことを妄想していたのであって、お店側にとって重大な局面に立ち会ったとしても私はやはり自分中心、人の痛みの本質がわからない人間である。(了)

 

*1:Bloomberg HPより2020.9.28.取得
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-06-24/QCFT4GDWX2PZ01

*2:スウェーデン公衆衛生局HPより2020.9.28.取得
https://www.government.se/articles/2020/04/s-decisions-and-guidelines-in-the-ministry-of-health-and-social-affairs-policy-areas-to-limit-the-spread-of-the-covid-19-virusny-sida/

*3:Benesse社サイト「たまひよ」より2020.9.29.取得
https://st.benesse.ne.jp/ikuji/content/?id=71226