第1回:プロローグ~コロナ禍の中で~

2020年10月20日から、3週間に1回、大手製薬企業勤務で“えきがくしゃ”の青木コトナリ氏による連載コラム「疫学と算盤(ソロバン)」がスタートします。
日経BP総合研究所メディカル・ヘルスラボWEBサイトに連載し好評を博した連載コラム「医療DATAコト始め」の続編です。「疫学と算盤」、言い換えれば、「疫学」と「経済」または「医療経済」との間にどのような相関があるのか、「疫学」は「経済」や「暮らし」にどのような影響を与えうるのか。疫学は果たして役に立っているのか。“えきがくしゃ” 青木コトナリ氏のユニークな視点から展開される新コラムです。

(21世紀メディカル研究所・主席研究員 阪田英也)

 

“えきがくしゃ” 青木コトナリ 連載コラム
「疫学と算盤(ソロバン)」 第1回:プロローグ~コロナ禍の中で~


東京アラート。多くの人にとっては、そういえばそんなワードもあったかなと忘れかけていたことだろうし、東京にあまり縁のない人であればそもそも聞き及んでもいないかもしれない。突如として新型コロナウィルスによる巣ごもり生活が始まったのは、私がその東京に引っ越してきてから間もないことであった。

最近ではGoToトラベルに東京都を含めることにするだとか、外国との入出国を緩和するだとか、国内ではようやく巣ごもり生活が物理的にも一段落しつつあるのだが、それでもまだ旅行だとか外食だとかをする際にはにわか東京都民としてどうにも後ろめたい心持ちがする。

東京アラートが解除されて間もない頃であろうか、未だ近所の様子もよくわからないまま、とりあえず自宅から最も近いと思われる、ネット情報では評判のよい天丼屋さんにコソコソと出かけてみた。昔ながらのお店のようで、カウンターしかない店作りはいかにも老舗の雰囲気を漂わせている。板前さんとその馴染みらしいお客さんとの会話に耳を傾けてみると、なんと、今週でお店を閉めるらしい。

「助成金が毎月出ると良いのだけど・・・」と、女将さんらしい人が笑いながらお話をされている様子はかえって切なく、初めて訪れた私がその会話に参加することもはばかられ、出された天丼に集中するかのように顔を上げずにただ食べ続けていた。

報道によると新型コロナによる国内の失業者は9月末時点で6万人を超えるという。仕事をするということには経済的なことばかりではなく、ときにその人の人生そのものであったり、心を通わせる人たちが語り合う場であったりと、もっと多くの意味合いがあるものである。新規の罹患者や死亡者数と共に、多くの悲劇の中で今、私たちは時を過ごしている。

疫学という学問領域について皆さんはどの程度、ご存じだろうか。私は縁あって会社のお仕事としてだけではなく、疫学関連の活動を通じて製薬業界や関連する医療データの会社さん、アカデミアの先生方らと企業活動の枠組みを超えてご一緒させて頂く機会も多い。

疫学の仕事を始めた頃は、PCやワードプロセッサーで「えきがく」と入力しても「疫学」という選択肢はなく「易学」、つまり占いの方の変換しか出来ないのが当たり前で、肝心のEpidemiology、疫学の方は一般には馴染みのない、少なくとも日本国内においてはニッチな学問領域であった。

それがどうだろう、このコロナ禍の折、メディアでも疫学者は度々登場し、望むと望まざるとに関わらず、「疫学」なる学問領域はそれなりの社会的認知が進んできた様子である。新型コロナによる被害が甚大な中で、長いこと疫学なる学問領域の社会的認知向上に関わる活動をしている私にとっては、思いがけずそれが加速していることについては複雑な思いで受け止めてもいる。

ただ、しかしながらどうなのだろう、東京アラートが発出された頃は確かにその疫学専門家なる肩書きの人が有識者ということで、国全体としていわば無批判にその意見を尊重していたようなところがあったが、ここにきてその疫学専門家に対する認識に少し変化が現れている様子がうかがえる。あまりにも感染予防にばかり意識が向いてしまって、政策としての社会活動停止や経済活動停止によるマイナス面を軽視しすぎているのではないかという論調である。

確かに、有識者会議なる会議体に感染のリスクをとにかく最小限にすべきという人ばかりというのではこれは大いに問題であり、例えば学校が休校になることによる学力低下の影響や、付随して病院勤務者がそれによって仕事を休まなければならない人が何人と想定されるのか、冒頭に述べたようにお店をたたまなければならなくなるのはどれだけなのかといった予測値なども合わせて、政策決定は多角的な視点から判断しなければならない。

その意味において感染拡大や死亡者数を適切に推察できる専門家に加え、社会活動や経済活動停止の影響を適切に推察できる専門家の双方があってこその有識者会議で無ければならないのは確かである。ただし、この前者が疫学専門家、後者が経済専門家という受け止め方をするのは明らかに間違っている。少なくとも私の知る疫学専門家というのは感染拡大の防止と社会や経済活動の停止による影響の双方を適切に予測し、そのうえでもっとも合理的と考える方法論を提案できる専門家に他ならないのである。